福禅寺 対潮楼
常夜燈から少し坂を上ると、海に面した寺の客殿に出る。元禄の頃に建てられた対潮楼は、座敷の柱と柵がそのまま額縁になって、目の前に弁天島と仙酔島を切り取って見せる。江戸時代には朝鮮通信使を迎える迎賓館にあてられ、ここからの眺めを使節の一人が「日東第一形勝」と書き残した。畳に正座してその景色に向き合うと、なぜ彼らが筆をとったのか、理屈ぬきで伝わってくる。坂本龍馬がいろは丸事件の談判をした座敷でもあり、海と歴史が同じ一枚の窓に収まっている。
バスを降りて路地を抜けると、いきなり海が開けた。湾を囲む家並みのあいだから潮の匂いが立ちのぼり、係留された漁船の舳先が陽を受けて揺れている。ここは瀬戸内のちょうど真ん中、東から流れてきた潮と西から来る潮がぶつかって止まる場所だ。だから昔の船は、ここで潮の向きが変わるのをじっと待った。「潮待ちの港」という言葉が、足元の水面を見ているとすっと腑に落ちる。観光地らしい看板の派手さはなく、ただ古い港町がそのまま息をしている。今日はこの湾を、海沿いから高台へ、また町なかへと、気の向くままに歩いてみる。
TOMONOURA / さんぽ
マチノワ編集部
順位ではなく、編集部が選んだ4スポットを順にご紹介します。バスを降りて路地を抜けると、いきなり海が開けた。湾を囲む家並みのあいだから潮の匂いが立ちのぼり、係留された漁船の舳先が陽を受けて揺れている。ここは瀬戸内のちょうど真ん中、東から流れてきた潮と西から来る潮がぶつかって止まる場所だ。だから昔の船は、ここで潮の向きが変わるのをじっと待った。「潮待ちの港」という言葉が、足元の水面を見ているとすっと腑に落ちる。観光地らしい看板の派手さはなく、ただ古い港町がそのまま息をしている。今日はこの湾を、海沿いから高台へ、また町なかへと、気の向くままに歩いてみる。
常夜燈から少し坂を上ると、海に面した寺の客殿に出る。元禄の頃に建てられた対潮楼は、座敷の柱と柵がそのまま額縁になって、目の前に弁天島と仙酔島を切り取って見せる。江戸時代には朝鮮通信使を迎える迎賓館にあてられ、ここからの眺めを使節の一人が「日東第一形勝」と書き残した。畳に正座してその景色に向き合うと、なぜ彼らが筆をとったのか、理屈ぬきで伝わってくる。坂本龍馬がいろは丸事件の談判をした座敷でもあり、海と歴史が同じ一枚の窓に収まっている。
港のへりに戻ると、白壁の古い蔵が一棟、水際に建っている。慶応三年(1867年)、坂本龍馬と海援隊を乗せたいろは丸が鞆の沖で紀州藩の船と衝突して沈み、龍馬たちは町の回船問屋に数日とどまって賠償交渉にあたった。その舞台となった蔵が、いまは展示館になっている。海底から引き揚げられた大理石のドアノブや船の部品が並び、二階には龍馬が身を隠したと伝わる部屋が再現されている。事件が起きたまさにこの港で物を見られるのが、ここの効きどころだ。
海沿いを離れて一本内側の路地に入ると、空気がふっと静かになる。江戸期の商家や蔵が連なる西町あたりは2017年に重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた一画で、漆喰の壁や格子戸が当時のまま続いていく。商業や鍛冶、酒づくりで栄えた港町の名残で、いまも薬味酒「保命酒」を商う古い店が軒を構える。路地は車がやっと一台通れるほどに細く、角を曲がるたびに違う家紋瓦や格子が現れて飽きない。拠点施設の「鞆てらす」をのぞけば、町をどう守ってきたかも分かる。
町歩きの締めに、港の渡船場から船で湾の向かいへ渡る。いろは丸を模したレトロな船「平成いろは丸」がわずか五分ほどで仙酔島へ運んでくれて、おおむね毎時数便あるから時刻表を気にしすぎなくていい。「あまりの美しさに仙人も酔う」と名づけられた島には人家がなく、赤や青の層が縞をなす五色岩で知られる。ただし五色岩へ続く海岸沿いの遊歩道は台風被害で長く通行止めが続いており、立ち入れる範囲は事前に確認しておきたい。それでも船を降りた浜辺からは、対岸からは見えなかった鞆の町並みが海越しにまとまって望め、この島まで来た甲斐がある。
東の潮と西の潮が出会って止まる湾。船乗りが風と潮を待った時間が、石畳にも家並みにも残っている。マチノワ編集部
夕方の渡船で本土へ戻るころには、湾の輪郭が淡い藍色に沈んでいた。半日歩いただけなのに、この町ではどこにいても海の気配がついて回った。福禅寺の対潮楼まで坂を上れば瀬戸内が額縁に切り取られ、いろは丸展示館をのぞけば海底に眠った船の物語が立ち上がる。西町の路地を曲がれば船道具屋の匂いがして、振り返ると仙酔島が湾の向こうに静かに横たわっていた。急かされるものが何もない、潮を待つための町。次に来るときは、対潮楼の畳に座って何もせず、ただ仙酔島が暮れていくのを眺めていたい。なお拝観時間や渡船の便、各施設の料金は折々に見直されるので、出かける前に公式の案内をのぞいておくと安心だ。