宗像大社 辺津宮
太鼓橋を渡って本殿・拝殿の前に立つと、まずその朱の落ち着いた色合いに目がいく。だがこの社の面白さは、本殿の背後に回ったときに現れる。すぐ後ろに第二宮と第三宮が並んでいて、それぞれ沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮の御分霊を祀る。海を渡れない日でも、ここに立てば三つの宮すべてに手を合わせられる――本土・大島・沖ノ島という三点の信仰を一か所に畳み込んだ造りそのものが、宗像の祈りのかたちを物語っている。
東郷の駅でバスを降り、田島の集落へ向かって緩やかに上っていくと、潮の匂いがどこからともなく混じってくる。ここは海の神を祀る土地なのだと、まだ鳥居も見えないうちから体が思い出す。宗像という名は、玄界灘の沖合に浮かぶ沖ノ島、その手前の大島、そして本土の田島という三つの場所に祀られた女神の物語と分かちがたい。今日歩くのは本土の社、辺津宮を起点にした半日ほどの道のりだ。木立の暗がり、苔の匂い、川面の光――順に書きとめていきたい。
福岡・宗像|MUNAKATA さんぽ
マチノワ編集部
順位ではなく、編集部が選んだ5スポットを順にご紹介します。東郷の駅でバスを降り、田島の集落へ向かって緩やかに上っていくと、潮の匂いがどこからともなく混じってくる。ここは海の神を祀る土地なのだと、まだ鳥居も見えないうちから体が思い出す。宗像という名は、玄界灘の沖合に浮かぶ沖ノ島、その手前の大島、そして本土の田島という三つの場所に祀られた女神の物語と分かちがたい。今日歩くのは本土の社、辺津宮を起点にした半日ほどの道のりだ。木立の暗がり、苔の匂い、川面の光――順に書きとめていきたい。
太鼓橋を渡って本殿・拝殿の前に立つと、まずその朱の落ち着いた色合いに目がいく。だがこの社の面白さは、本殿の背後に回ったときに現れる。すぐ後ろに第二宮と第三宮が並んでいて、それぞれ沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮の御分霊を祀る。海を渡れない日でも、ここに立てば三つの宮すべてに手を合わせられる――本土・大島・沖ノ島という三点の信仰を一か所に畳み込んだ造りそのものが、宗像の祈りのかたちを物語っている。
境内の一角にある建物に入ると、外の明るさが嘘のように照明が沈み、ガラスの向こうで金銅製の馬具や金製の指輪、ペルシャ由来とされるガラス碗の破片が静かに光る。立ち入りの厳しく制限された沖ノ島の祭祀跡から見つかった奉献品はおよそ八万点、そのすべてが国宝に指定され、ここに集められている。沖ノ島が『海の正倉院』と呼ばれる理由を、解説ではなく実物の手触りで理解させてくれる場所だ。料金や開館の時間は変わることがあるので、訪問前に公式サイトで確かめておきたい。
本殿の横手から続く参道に入ると、急に空気が湿って、足音だけが大きく響くようになる。杉木立の坂を上りきった先にあるのは、社殿でも建物でもなく、玉垣に囲まれた剥き出しの地面だった。ここは市杵島姫神が降りたとされる地で、屋根も柱もないまま、神を木々や土そのものに見出した古い祭りのかたち――神籬の祭場が、現代まで途切れずに残る。何もないことが、かえってこの社の最も古い記憶を伝えている。
社をいったん離れ、吉田の集落の方へ坂を下って上り返すと、山裾に鎮国寺の門が現れる。空海が唐からの帰途に開いたと伝わる真言宗御室派の別格本山で、かつては宗像大社の神宮寺、つまり社と一体で祈りを担った寺だった。神と仏が分かれる前のこの土地の信仰の姿が、社と寺がこれだけ近い距離に並ぶ景色によく残っている。本尊の不動明王立像は秘仏で、御開帳は年に一度の四月二十八日に限られる。
宗像盆地をゆるやかに横切る釣川は、城山あたりに源を発して北西へ十六キロほど下り、神湊で玄界灘に注ぐ。この川がつくった沖積地には縄文・弥生の遺跡が点々と残り、古くから人が暮らし、海と社を行き来してきた道筋でもあった。橋の上から下流を眺めると、川の先に港が、その沖に大島が、さらに見えない沖ノ島が連なっているのが地図のように想像できる。社で手を合わせた方角と、この川が流れていく方角は、同じ海でつながっている。
三つの宮は海でつながっている。本土に立って、見えない島の方角へ手を合わせる。マチノワ編集部
釣川の橋の上で立ち止まると、半日歩いた道がひと続きの線になってよみがえってきた。社の朱、神宝館の沈んだ照明に浮かぶ金、参道の杉木立、寺の不動の眼差し、そして川が運んでいく光。宗像の信仰は、本土の社で完結せず、いつも見えない海の彼方を指していた。手を合わせる先に島があり、島の向こうに大陸との海の道があった、という距離感が、歩き終えてようやく腑に落ちる。日が傾くと川面の色が変わる。バスの時刻を確かめながら、もう一度だけ沖の方を見て、来た道を戻ることにした。なお拝観の時間や料金は折々に見直されるので、出かける前に各施設の公式の案内に目を通しておくと安心だ。